農村での国際結婚

1. はじめに

 現在日本に滞在しているフィリピン人の数は、長期・短期の滞在を合わせて、16万人前後といわれる。
フィリピンでは、土壌が農作に適さず、農業が発達しないため、職を持たず生活できない人も多く、
そのため、海外に移住したり、出稼ぎに出るものが多くいる。現在世界各国で働くフィリピン人は、
500万〜600万人以上いるといわれ、そのうち、日本に出稼ぎに来る者は、7,8万人であるという。
このような海外出稼ぎ労働者(OFW)および日本人と結婚しているフィリピン人女性が、日本を訪れる際
の背景となっているものや、彼らの抱える問題について、以下にまとめる。


2. 出稼ぎ労働者と国際結婚
 
  フィリピン人が海外契約労働者(OCW)として移住したのは、1906年、200人のフィリピン人が
深刻な労働力不足に悩むハワイに出稼ぎに行ったのが最初の公式記録である。その後、世界各地に出稼ぎに
行くようになり、日本には、1980年代初頭から、フィリピン人を含め、アジアからの外国人労働者の流入が
急増するようになった。それまで、近隣アジア各地では、日本人による売春ツアーがさかんに行なわれてい
たが、それに対する批判の裏返しとして、日本国内でのそのような仕事に携わる女性の「需要」が高まり、
その頃から、「ジャパゆきさん」と呼ばれるフィリピン人女性が多数来日した。
 
  こうした外国人労働者の流入の急増を受けて、日本政府は1985年、入国管理法を施行した。バブル景気と
相まって、また、90年の入管法改正によって外国人労働者の数は更に急増し、徐々に社会問題化していった
。そしてバブルが崩壊し日本経済が不況期を迎えると、労働者過剰の状態からこの問題は表面化していくよ
うになる。当時、日本が移民労働者、外国人労働者に門戸を開放したのが主に娯楽産業だけであり、フィリ
ピン、タイ、台湾人女性が歌手、ダンサー、ホステスなど、エンターテイナーとして働くよう雇われた。
その中で、自発的にあるいは強制的に、売春にたずさわる者もいて、「ジャパゆき」さんたちは、虐待と
搾取にさらされる日々を送った。

  それに対し、フィリピン政府は、貿易に必要な外貨獲得のために海外への出稼ぎを国策として奨励し、
労働雇用省、フィリピン海外労働オフィス、フィリピン海外雇用庁の専門官庁を設置し、出稼ぎ労働者の
奨励や保護にあたっている。この三省庁は、関係法制や制度を定め、雇用者のチェック、労働者の保護や
厚生、技能訓練まで関与している。フィリピン政府としては、この労働者海外派遣政策は低迷する国内経済
を救う一時的な措置であるとしているが、年間約百数十億USドルに上る海外からのフィリピンへの送金は、
国家予算GDPの25%を占めるものであり、フィリピン経済にとって、欠くことのできない大きな外貨収入に
なっているという現実である。

  海外に出稼ぎに行く、主な理由としては、「家族に楽な暮らしをさせたい」という経済的な理由が一番
多い。“isang kahig, isang tuka (その日暮らし)”から貧しい家族を救出するために、海外へと働きに
でるのである。フィリピンのOFWは未登録者を含め、500万〜600万人いるとみられており、人口、約7500万人
のうちの1割、労働人口の約2割にあたる人数に上り、その6割を女性が占める。国連によると、フィリピンの
人口増加率は年々増加し、2050年には1.75倍の1億4000万人になるという。こうした人口のプレッシャーと、
外貨獲得の目的のために、今後もOFWの数は増大していくだろう。
OFWs 受け入れ国
サウジアラビア 27.3%
香港11.5%
台湾10.5%
日本 9%
アラブ首長国連邦 5%
クウェート、シンガポール
(National Statistics Office, 1999 survey)
  受け入れ国別にみると、サウジアラビアが最も多く27.3%、次いで香港11.5%、台湾10.5%、日本9%、
アラブ首長国連邦5%、その他クウェート、シンガポールと続く。サウジアラビアには工場労働者や建設
労働者、アジアには家政婦、アメリカには看護婦やエンジニアなど技能を持った労働者が向かい、日本には
エンターテイナーが多い。フィリピン人は国民性がホスピタリティに富み、また英語も話すことができる
ため、各国で重宝がられているようである。エンターテイナーとして日本に出稼ぎにいくのは、他の国への
出稼ぎに比べて、難しいことである。なぜなら、日本の要求水準に合わせて、スタイルのよい、かわいい
女性が選ばれるということと、来日のために、高額な準備金を要するため、比較的高い階層出身の子女が
選ばれることとなるからである。応募者は、家族や友達などの仲介人をへて、まずフィリピン側のエージェ
ントやプロモーターに受け入れられる。そこで、オーディションを受け、ダンスの練習などをして、日本へ
渡る準備をする。契約書にサインすれば、あとは、パスポートやビザの取得を含め、渡航の手続きは、
エージェントにまかせて済ましているようだ。その後、日本側のプロモーターやリクルーターと呼ばれる
人々もしくは企業へと渡される、というプロセスを経て来日するのである。エンターテイナーとして日本に
くるフィリピン人女性の教育水準が高く、英語での意志の疎通が可能であるのはそのためであると言われて
いる。

  このように、政府の国策として奨励している海外派遣制度であるが、その結果、「頭脳流出」という
社会資本の損失と、経済再建に必要な青壮年の生産力を国外へ放出することとなり、国内経済の立て直しに
は逆効果であるともいえる。


  日本に滞在しているフィリピン人の多くは、日本人と結婚して配偶者ビザという在留資格を得ており、
その数は約8万人ともなる。また、興行ビザでエンターテイナーとして滞在している者も多い。
いずれの場合も日本に滞在する外国人は、ビザの問題から、離婚や家庭内暴力、戸籍の問題に悩むこと
があるようだ。

  日本で働くフィリピン女性たちにとってのもうひとつの悩みは、フィリピンの家族から寄せられる
過剰な期待である。“日本でエンターテイナーとしてたくさん稼いで帰ってくるはずだ、日本に嫁いで、
裕福で幸せな家庭を築いているはずだ”といったフィリピンの家族の「日本行き=成功」という期待は、
彼女たちにとっては、負担やプレッシャーになるのである。そして母国では、日本からの仕送りに依存し、
働こうとしない家族が増え、そうした家族が家を改築したり、電化製品を買いそろえたりするのを見て、
近所の人々にとっても日本が“憧れの地”となっていくようだ。その反面、売春業で稼いだお金を軽蔑する
という矛盾もあったりする。

  国際結婚は年々増加しているが、それは明らかに、日本人男性と東南アジア出身女性との結婚の急増に
起因する。国際結婚にはいくつかパターンがあり、
ひとつは、日本人男性が海外赴任中や旅行中に出会い、結婚する「現地出会い型」、
もうひとつは、エンターテイナーとして日本に来ていた女性と出会い結婚に至る「国内出会い型」である。
また、農村部に多くみられる、行政の仲介によるお見合いから結婚する「行政仲介型」や 
ブローカーによって斡旋され、結婚する「ブローカー仲介型」にわけられる。
行政やブローカーによって紹介される「フィリピン人花嫁」は、「農村花嫁」や「通信販売花嫁」とも呼ば
れ、エンターテイナーと同じような取引にもとづいて斡旋される。つまり、エンターテイナーが来日する際
と同じようなプロセスを経て、選ばれたものが日本に紹介されるわけである。嫁飢饉に悩む農家の男性が、
日本の斡旋業者に300万円支払い、日本の業者は斡旋料として、そのうちの150万円をとり、フィリピン政府
の斡旋業者に100万円支払って、残りの50万円を渡航費に使うというシステムである。人身売買のような
このお金の流れを女性は何も知らずに来る事が多い。

 こうした「フィリピン人花嫁」を迎え入れる背景には、高度経済成長により、農村から都市へと若者の
流動化が進み、農村の過疎が深刻になったことがあげられる。それに加え、所得の低下、農地の荒廃、老人
世帯の増加、生産意欲の減退、未婚男女比の拡大などの社会的な要因があり、また、農村社会特有の「家族
存続の思想」という問題から、後継者問題へと発展していった。そうした農村の中で初めて、行政の仲介に
よる国際結婚が行われたのが、1985年の山形県の西村山郡朝日町である。以降、最上地域全体、山形県全体
へと普及した。

 文化や価値観の違う国どうしの国際結婚には、様々な問題が付随する。一番多いのは家庭内暴力である。
しかし、妻の側は、実家ぐるみで夫に経済的に背負われていることへの負い目から、また、離婚によって
ビザを失い、日本に滞在することができなくなることへの恐れから、夫による暴力を我慢することが多い
ようである。また、家庭生活において夫が妻に対して日本語を強いる傾向が強く、日本への適応を強く求め
ることも、フィリピン女性にとっては大きなストレスとなる。さらに、日本的な「イエ」制度との摩擦と
いう問題があり、日本人家族との人間関係が妻を悩ましている。このように「日本人になること」を求める
夫と「自由で豊かな生活」を求めて結婚する妻の間の葛藤が、国際結婚には大きな問題となり、女性はスト
レスをため、精神的に不安定な状況に陥ることもあるようだ。

  最後に、JFCと呼ばれる日比混血児の抱える問題をあげる。JFCとは、Japanese Filipino Children の
頭文字をとったものであり、日本国籍とフィリピン国籍の親から生まれた子ども達のことを指し、日比混血
児、日比国際児、または、差別的にジャピーノと呼ばれることもある。混血児であるが、ハーフではなく
ダブルだともいわれる。なぜなら、日本とフィリピン両国とも、現在は血統主義を取っており、彼らの
子どもは、生まれた時にフィリピン国籍と日本国籍の2重国籍を取れるようになっているからである。
JFCは、マニラ周辺だけで1万人、フィリピン全土に数万人いる。日本にいるJFCは、届出が出されていない
ことが多く、その数は明らかにされていない。「日本人である」ことは、日本で暮らす上で圧倒的に有利で
あるが、日本人の実子であっても日本国籍が取得できない場合は、子供の国籍は、母親の国籍であるフィリ
ピン国籍となる。そうなれば、日本人の子供であっても、その子は日本では「外国人」として生きていく
ことになる。日本国籍が取得できない場合というのは、未結婚で、日本人の父親による生後認知や胎児認知
が得られない場合である。そうなると、アイデンティティーの葛藤に悩んだり、無国籍状態で隠れた生活を
強いられたりすることさえある。

  現在では、こうした外国人の妻や、国際児のために、国際交流センターを設置し、「言葉」「文化」「医
療」「交流」のサポートをしたり、国際化する学校教育において、各児童の個性を尊重する言語教育の態勢
作りに力を注いだりなどの活動がみられる。そうした活動をもとに、農村地域においても、「多文化共生
社会」の構築が目指されている。「嫁不足」や「経済的理由」で、行政やブローカーによって行われる
「結婚」は、経済大国と貧しい国々との間の人身売買であるというような、悪いイメージがどうしてもつき
まとう。農村に迎え入れられるアジアの女性の人権は、十分に守られているだろうか。いまだ「単一民族」
思想が根強く残る日本の社会において、多様で豊かな地域文化を作り上げていくためには、自分と違う価値
観や、個性を尊重できるようにならなくてはいけない。そしてそれをもとに、農村を中心とした旧社会体制
を保持する閉鎖的な地域性の改善や、新しい社会づくりをめざすことが問われるだろう。
 

3. おわりに

 1970年代後半から約10年もの間、フィリピンをはじめ、東南アジアへの日本人旅行客のうち、男性の旅行
客の数がそのうちの9割を占めていたという。いうまでもなく、その理由は「フィリピン旅行=売春ツアー」
というものであった。昨年の夏にマニラを訪れた時、英語の看板であふれている街の中で、なぜか日本語の
看板が目立っていたことが印象に残っている。それらの看板は、「ら〜めん」「鉄板焼き」などの日本食レス
トランである。なぜこんな所に、と不思議に思った私は友人に尋ねてみた。すると彼は、厳しい顔をして
「日本人のおやじのためにあるんだ」と答えた。その一言には、女性を買いにくる日本人に対する嫌悪感や
、体を売るフィリピン人女性への差別・偏見など、複雑な思いが含まれているように聞こえた。また、都市
部のクラブやバーには、白人男性相手に、集団で騒ぎ立てるフィリピン人の娼婦達の姿を多く見た。夜にな
ると、街中のあちらこちらで派手に着飾った女性が立っているのを見かけた。そしてそんな彼女達のことを
、蔑むように見たり、何も気にかけず無視して通り過ぎる現地の男性。フィリピンでは、エンターテイナー
として日本に出稼ぎにでることは、家族の誇りであるとか、華やかな憧れの仕事であると、言われるが、
実際喜んでこのような仕事に携わっているのは、少数であるだろうし、現地の人々からの反応は冷ややかな
ものである。やはり、フィリピンはカトリックを信仰する宗教国であるから、宗教に反するようなことを
望んですることはないのだろう。貧しさゆえに、仕方なく働いて稼いでいるのである。

  こうした問題をあげてみて、海外に出稼ぎにでる外国人や、水商売をする女性に差別や偏見を抱いたり、
その境遇を哀れんだりなど、様々な感情を抱くことがあるだろうが、彼らをそうさせているのは、飽食の
日本や欧米であるという事を考えなければならないと思う。

 

参考文献

“Women Imagined, Women Imaging: Re/presentations of Filipinas in Japan Since the 1980s” 
                Nobue Suzuki, English Supplement No.19, 2000 

“Between two shores: Transnational projects and Filipina wives in/from Japan”                                  Nobue Suzuki, 2000 Elseveir Science Ltd

『フィリピン女性 エンターテイナーの世界』
                マリア・ロザリオ・ピケロ・バレスカス 1994 明石書店

『フィリピン出稼ぎ労働者』 石山永一郎 1990 拓植書房

『フィリピン』 1999 トラベルジャーナル

 
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送