従軍慰安婦問題

1. はじめに

 「従軍慰安婦」とは、日本軍の管理下におかれ、無権利状態のまま一定の期間拘束され、将兵に性的奉仕
をさせられた女性たちのことであり、「軍用性奴隷」と表現されることもある。1991年に元韓国人慰安婦、
金学順(キムハクスン)さんらが声を上げたのをきっかけに、アジア各国から「慰安婦」の被害体験を持つ
女性たちが次々に「慰安婦制度」の加害性を告発し、以来、戦争責任と責任の取り方が議論されるようにな
った。しかし、従軍慰安婦をめぐる問題において、様々な文献やウェブサイトを調べてみても、「慰安婦の
強制連行はあったのかどうか?」といった強制連行の有無の問題を取り上げる人々が多く見受けられる。
軍の関与、民間業者による強要などに焦点を置き、肝心な被害者のことを忘れているのではないだろうか。
「性」についての問題や、人権に関する基本的問題を置き去りにしてはいないだろうか。 


2. 従軍慰安婦問題

  1980年代後半から、韓国ではフェミニズム運動がさかんになり、それに支えられて、1991年、戦後約50年
経ってから、元慰安婦の金学順ら3人が、日本政府に対し、謝罪と個人補償を求め、東京地裁に補償請求提訴
を起こした。日本政府は初め、軍や政府の関与について否定していたが、民間側からそれを証明する資料を
つきつけられ、93年、軍の一部関与や、韓国での強制連行の事実を認め、公式に謝罪したが、個人への国家
補償は拒否した。国連のクマラスワミ特別報告書では、「軍事的性的奴隷」に対して、「日本政府は直接、
国家補償を行うこと」と勧告しているが、1995年、村山富市内閣は「女性のためのアジア平和国民基金」を
創設し、「民間基金」や「見舞金」の支給などで、国家賠償を曖昧にした。結局、元慰安婦に対する謝罪や
名誉回復、国家による個人賠償は未解決のまま、資料などで明らかにされた「書かれた記録」と慰安婦たち
による「書かれざる記憶」とが交差し、それらをもとに、強制連行の有無に関する主張の争いとなっている
ようだ。

 最初に慰安所が設置されたのは、1931年9月18日の南満州鉄道爆破事件および満州事変の時である。1932年
1月には、第一次上海事変で日本陸海軍が上陸し、軍慰安所が設置され、1937年の南京事件前後までに大量に
設置され始めた。その多くは、多発する強姦事件を防止するための治安維持を目的として設置された。しか
し、当時は、強姦罪に対しての罰則がありつつも、実際の処罰は甘く、慰安所設置によって、強姦事件がな
くなることなど無かった。慰安婦制度というのは、言い換えれば、特定の女性を犠牲にする性暴力公認シス
テムであり、一方で性暴力を公認しておきながら、他方で強姦を防止するのは不可能であった。また、軍が
最も恐れたのは、性病の蔓延であり、その予防策として慰安所を設置し、民間の売春宿を利用することを禁
止し、慰安所では、定期的に性病の検査が行われ、衛生管理を徹底していたという。その他、スパイ防止
という理由もあり、慰安所では軍による監督、統制がなされていた。

  徴集の仕方を見てみると、中国やフィリピン、インドネシアなどの占領地では軍人による拉致や、暴力的
連行が多く、朝鮮や台湾などの植民地では、軍から許可を与えられた民間業者による一般女性や娼婦の公募
や、就業詐欺まがいの連行が多い。この徴収方法に関して、様々な議論が繰り広げられているのだが、「従軍
慰安婦」削除派は、これらの強制連行の事実を否定し、慰安婦は、娼婦からの公募がほとんどで、その多くが
高収入を得て、借金返済をし、優雅な暮らしを送っていたと主張している。彼らにとっての「従軍慰安婦」とは、軍駐屯地近くに店を構え、若しくは複数の女性を連れて駐屯地を廻っていた軍専門の民間業者の元で
働いていた売春婦の事であり、立場はあくまでも民間人なのである。そして「従軍慰安婦」という呼び名は、
千田夏光氏が二十余年前に作り上げた造語であり、戦時中は存在していないという。また、聞き込み調査を
行った際、強制連行の「システム」の有無を問うことにより、「決められたシステムはなかった」という
答えを得て、強制連行の事実を否定する証言として利用している。たしかに、慰安婦の中には、要領よく
こなして稼ぎを増やし、軍が行くところに一緒に移動する者もいたのだろう。しかしそれは一部の慰安婦に
限ることであり、高収入を得たといっても、支払いは、日本軍が発行した紙幣「軍票」によるものであった
ために、終戦とともに紙屑同様となり、稼いだお金は一銭も残らないような状態で、帰るところも無く途方
にくれる慰安婦もいたのである。また、民間業者は、いい稼ぎ口があるといって、職種を明らかにしない
まま、貧しい家の娘をだまして強制的に働かせたり、借金苦の貧しい家の親が、娘を売り飛ばしたケースも
あった。このように、間に民間人が介在したことが多かったため、「軍の直接関与はなかった」と表現する
ことも可能であるとして、拉致や詐欺など、いずれの場合も、本人の自由意思に反して連行されたもので
あるのにも関わらず、この強制的な連行を、日本軍が全て関与していたわけではないとして、国家の責任の
がれに利用する「従軍慰安婦」否定派および削除派は、主張を展開している。

 「従軍慰安婦」は、終始監禁・拘束され、朝は兵士の食事の支度をし、一日中兵士の相手をし、休憩時も、日本軍または業者の監視下におかれ、どこへも逃げ出せない状況で、そこでの終わらない地獄のような生活
は、恐怖と屈辱の体験であり、抵抗すれば暴力を振るわれたり、食事をもらえなかったり、家族に危害を
加えると脅迫されたりという、心身に対するさまざまな虐待のもとに性行為を強要された。慰安所は、ホテ
ルや大食堂、商店、学校など部屋数の多い建物を改造し、兵士にとって通いやすい場所に設けられ、前線
近くでは、破壊された民家が使われた。3,4畳半の仕切られた部屋には、布団と消毒液、そして慰安婦の家
財道具が置かれた。慰安婦は、将校用・下士官用・兵士用とに分けられ、朝9時半から3時半までは兵士、
4時半から8時までは下士官、8時半から翌朝までが将校、というように上司と部下が会うことのないように、
時間帯が区切られていた。通常一人30分という持ち時間が与えられたが、しかし、時には兵士が慰安所の前
に行列を作って待つこともあり、ベテランの慰安婦の中には、一人3分で交代させていたということもある
ようだ。そのため、女性というものは、環境適応能力に蹂躙で、初めはつらくて毎日が地獄のような生活を
強いられていたとしても、慣れると、金稼ぎのために、自ら客寄せしていたほどだ、というような意見まで
出ている。軍は、性病の蔓延の防止に最大限の注意を払ったが、民間の売春宿を利用した兵士から、軍慰安
所で働く慰安婦に性病が伝染し、それが他の兵士に伝染することもあり、問題はなかなか解消されなかった。

  敗戦後、日本は、米兵による一般市民への暴行を恐れ、日本においても、連合国軍用の慰安所を設けるな
どして、迅速な対応を示した。しばしば戦争に売春や強姦はつきものだと言われることがあるが、しかし、イギリス軍やアメリカ軍の戦場には軍の慰安所は無かったようであり、日本軍が「慰安婦」を必要としたの
には、以下の要因が考えられる。それは、休暇制度の不備、劣悪な勤務体制などによるものである。アメリ
カやイギリスの軍のような通常の軍隊は、帰休制度を持ち、交代で戦うのに対し、日本の兵士の場合、一度
出征すれば死ぬまで戦わされたため、兵站・補給のない無理な戦線の拡大は、兵士の倫理観を荒廃させ、略
奪・強姦事件を日常とする生活を強いることとなった。慰安所を作らないと強姦が多発すると発想しなけれ
ばならない戦争そのものが、そもそもの国策の誤りだったといえる。

  また、日本は敗戦と同時に、戦時中の証拠を隠滅するため、多くの公文書を破棄・湮滅した。そして、
慰安婦はその境遇から、記録を残せる立場になかったため、現存する資料は少なく、文書に書かれた証拠が
不足していることにより、現在議論が平行線をたどったままになってしまっている。終戦後、慰安婦の一部
は帰国したが、その後も、社会的制裁 (スティグマ)・精神的外傷 (トラウマ)に悩まされ、元慰安婦であるが故に、
社会的差別を受け、慰安婦生活のために生じた性病・子宮疾患により、子宮摘出や不妊などの、身体の病気
に犯され、それと同時に、後遺症や神経症・鬱病・言語障害などの心の病気にも犯され、子どもを生むこと
の出来ないからだでは結婚することもできず、「社会の恥」という呪縛に苦しみながら長い間沈黙を守り続け
た。

  従軍慰安婦問題における大きな犯罪は、二重の犯罪(セカンド・レイプ)と呼ばれ、
そのひとつは「戦時強姦」という犯罪であり、
もうひとつは、「罪の忘却」という犯罪である。
そして三重の犯罪として、もうひとつ、「被害女性の告発の否認」という犯罪も浮かび上がる。
「新しい歴史教科書」を作る会などの削除派の人々は、祖国と皇軍の名誉と尊厳を回復するために、所謂
平和団体など反国家の人々の主張を、彼らの求める平和は、ただのマゾヒストの自己満足であると批判し、
慰安婦問題浮上のきっかけとなった金学順についても、日韓の反日亡者に利用されて、金欲しさのために
提訴し、結局、既成事実を暴かれ捨てられて死んでいった愚か者という。それこそがセカンドレイプという
犯罪なのである。
           

3. おわりに

 「謝罪賛成」派は、「事実は事実として認めるべき」と主張する。しかしその事実の全てが本当のものである
わけではない。時には感情的になり、事実以上のことを証拠にあげて主張することもあり、また、侵略行為
の後ろめたさを、当時の政府や軍の責任追及と断罪によって払拭するかのごとくの、反国家的な一面も見受
けられる。賛成派も反対派も、お互いの主張に精一杯で、数多くある資料も、自分達の都合のいいように
読み解き、己の見解を頑なに信じ、守ろうと必死になっているようにみえる。

  侵略戦争の下では、女性への性暴力は犯罪と認識されず、帝国主義イデオロギーが女性に対する性差別と、
アジアの国々に対する民族差別を推進させていった。そして、男性社会・家父長社会が生み出した「女性の
価値は純潔である」という貞操観念によって、元慰安婦は「汚れた女」という社会的烙印を押され、自ら
その「価値観」を受入れて自己否定を続けたといえる。女性の人権が無視され、人間としてではなく、モノ
のように扱われていた時代の、残酷な人権侵害、一人の人間としての尊厳の破壊、これこそ、日本および、
各植民地・占領地での民間業者、そして何より、戦争というものが犯した、一番の罪ではないだろうか。
「慰安婦」問題には、国家の戦争責任のとり方が問われたり、この問題そのものの存在否定があったり、
偽善的とも受け取られる過剰な反国家感情があったりなど、さまざまな議論を呼んでいるが、当事者では
ない世代の者が、責任を押し付けあっても仕方がないと思う。悪いのは、「慰安婦」という存在を必要と
しなければならなかった戦争の状況であり、金儲けのために女性を利用した、占領地や植民地の民間業者で
あり、その制度を犯罪とみなさなかった、男性中心社会のあり方である。今、私たちが考えなければならな
いのは、問題の再発・再現の防止、つまり、武力紛争下の女性に対する暴力の根絶と、アジア諸国との信頼
関係の再構築についてである。

 

参考文献:

『従軍慰安婦』吉見義明著、岩波新書、1995

『戦争責任とジェンダー』鈴木裕子著、未来社、1997

『ナショナリズムとジェンダー』上野千鶴子著、青土社、1998

『新ゴーマニズム宣言』小林よしのり、小学館、2001

ウェブサイト:

「民族戦線」雨宮輝行

「慰安婦問題FAQ」「慰安婦とは何であったか」西野瑠美子

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